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SARASVATI
三宅千鶴のオリジナル小説ブログ 

第2章-2

 何かが変だった。

「主任、新規研究プロジェクトの経費見積もりについてちょっと確認したいんですけど、今いいですか?」
「ああ」
 貴大は、デスクを挟んで立つ当麻に向けて頷いた。

「この見積もりは、N社を含めた3社に依頼していいんですよね?」
「そうだ。何か問題でもあるのか?」
「はい。実は前回の見積もりを見ていて思ったんですが」
 以下、普通の上司と部下の会話が続いていく。

 1週間の入院生活と自宅療養を経て職場復帰し、それから1週間が過ぎようとしていた。
 当麻との関係はいたって普通。
 高熱を出した前後の記憶が夢幻だったのではないかと思えるほど、彼は以前通りの節度ある接し方を続けていた。

(コイツはコイツで、こうおとなしいとかえってブキミだ……)
 何だか拍子抜けした感じがして少し寂しい――なんて、死んでも認めたくないことなので思考から弾き飛ばした。

「わかりました。すぐに資料を準備します」
 歯切れ良い返事が返ってくる。当麻は貴大から受けた指示を実行に移すべく、自分のデスクに戻って業務を再開した。
 オフィスを見回すと、他の5名の社員は黙々と仕事をこなしている。これもいつもの光景だ。ただ、何かが違う。

(俺の考えすぎか?妙なことがありすぎて神経質になっているだけなのか?)
 いや、違う。貴大はハタと気づいた。

 この1週間、誰も自分と眼を合わせようとしないことを。
 もちろんこれまでも、好んで貴大と眼を合わせようとした者は皆無だった。藤崎当麻を除いては。
 なので、違和感はそこではない。

 誰もが眼を合わせよとしないくせ、誰もがちらちらと、貴大の眼を盗んで視線を送ってくる不思議な現象が起きていた。とくに、当麻と仕事の話をしている時は、全員の見えない眼がこちらに向けられるのを気配で察せられた。
 部下や同僚は皆等しくそうだし、直属の上司である岡田室長に至っては、復帰の挨拶で話をして以来、意図的に避けられているのがわかる。

(まあ別に、仕事に支障がなければどうでもいいことではある)
 考えるだけ無駄な気がしてきた。貴大は手持ちの仕事に没頭しようと決めた。
 室長命令でしばらく残業禁止となったあおりを受けて、仕事は定時までに終わらせなければいけなくなっていた。

(仕事に専念すれば煩わしいことを考えなくて済むし)
 貴大は当麻の綺麗な横顔にふと眼をやってから、慌ててパソコンに視線を戻す。
 その存在を煩わしいと思いながら、つい気になって見てしまうのは何故なんだろうか。

 いつしかすべてを忘れ、ふと気が付くと、昼休みの時間を過ぎていた。オフィスには貴大のほか誰もいない。これもいつものことだ。

 当麻は入社した当初、やたらと外にランチを食べに行こうと誘ってきたが、断り続けているうちに諦めてくれるようになった。
 そもそも、貴大は昼食を食べる習慣がない。と言うか、朝も食べないし、夕食さえ忘れてしまうことがある。食に対する興味がないのだ。
 その点については、今回の入院中ドクターからしこたま説教を受けてきた。

『食べないから痩せる。痩せるから体力がなくなる。若い間はそれでも何とかなるが、30を過ぎると体力のなさがモロに病気に直結する』
 と、毎日のように説かれては、嫌でも健康管理に取り組まなければと言う気になってくる。
 それに、今回ちょっとした風邪をこじらせて肺炎を起こしてしまったことで、体力の低下をほとほと痛感させられた。貴大にとって仕事ができなくなることは、生存している意味を見失ってしまうに等しく辛いことだった。

(とりあえず、何か食べよう)
 木枯らしが吹く中をコンビニまで出かけるのも億劫だったので、温かい軽食も取り揃えている社内食堂に行ってみることにした。

 ビルの18階にある社内食堂に足を踏み入れるのは、入社当初以来なので10年ぶりのことだった。
 ちなみに、この会社は社長が女性なだけあって、食堂やトイレなど女性が気にする場所は細かいところまで気配りされた造りになっている。

 とくに食堂は『食を楽しむことは仕事の源になる』と言う速水社長の理念が活きており、1000名収容可能なフロアには、南欧プロヴァンスのオープンカフェを思わせる明るい色調のテーブルセットや、果物とサラダがメインのバイキングテーブルなどが配置され、とても一般企業の食堂とは思えないお洒落感が漂う。
 壁は全面ガラス窓となっており、18階から見渡せる眺望を楽しめるように木製のカウンター席がフロアを取り巻いている。

(それにしてもこの会社、こんなに人がいたんだな)
 ちょうど昼の込み合う時間帯だったので、広いフロアが狭く感じられるほど、どこを見渡しても社員が席についてそれぞれに食事を楽しんでいた。
(バイキング料理じゃなくフツーな、蕎麦とかがあったはず。確か食券を先に買うんだったよな)

 乏しい記憶を辿りながら、奥にある厨房近くに置かれた券売機へ向かう。
 途中、すれ違った何人かがハッとしたような視線を向けてきたような気がするが、人の顔をロクに覚えていないので知り合いかどうかすらわからない。

(ここもまたメニューが多すぎる……かけ蕎麦はどのボタンを押せばいいんだ?)
 券売機を前にして見慣れないシステムに戸惑っていると、背後から野太い男の声で呼びかけられた。

「おい、佐野じゃないか!」
 振り返ると、体育会系らしいガッチリした体躯の社員が立っていた。この顔と風体は覚えている。


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