第6章-1
ローラ・ブリンナー博士が乗った飛行機は、13時には羽田空港に到着する予定だった。
会社の公用車で迎えに出た高橋リーダーと通訳担当の藤崎当麻が彼女を連れて帰社するのは14時の予定。
プロジェクトチームのメンバー8名は、それまで自由にしていいとリーダーからお達しが出ていたので、各自ローラに説明するための資料作りなど準備に没頭していた。
(佐野は大丈夫なんだろうか―――?)
井ノ内は誰もいない隣の席を眺めて思う。
いつもそこに座る貴大は、14時まで有給をとって休んでいた。所用があるから、と言う理由だったそうだが、どう考えても当麻と顔を合わす心の準備ができていないんじゃないかとしか思えない。
(あいつら、意地っ張りなところもよく似てるし。どっちかが折れないとこのまま終わってしまうとわかっていても、できないんだろうな。今回の仕事が互いに折り合える機会になればいいんだが………)
井ノ内は貴大の決断をまだ知らない。当麻の抱える葛藤も。なので、そう願うしかできなかった。
(そろそろ着いた頃かな)
腕時計を見ると、13時をすでに回っていた。
(さて、俺も資料のチェックをしておくか)
パソコン作業に集中しかけた時、机上の社用電話が鳴った。ディスプレイには、高橋の公用携帯の番号が映し出されている。井ノ内はすぐに電話に出た。
「はい。井ノ内です」
「あ、高橋だけど」
50を過ぎたばかりの高橋は、温厚な研究者と言った風情の実に穏やかな人物なのだが、この時の声は幾分動揺しているかのように上擦っていた。
「何かありましたか?」
訊くと、高橋は早口になって捲くし立てた。
「今、羽田空港のロビーなんだけどさ、待ち合わせに指定した場所で待っていてもブリンナー博士が来ないんだ。携帯電話にも出ない。藤崎くんがあっちこっち探し回ってきてくれたんだけど、見つからないんだよ」
「博士は東京に来たことあるんですか?」
「藤崎くんの話だと、何度かあるらしい」
「じゃあ何かの行き違いがあって、一人でこっちに向かっている可能性もありますよね」
高橋が返事をするまでに少し間があった。きっと近くにいるはずの当麻と相談をしているのだろうと、井ノ内は考えた。
「あ、すまない。藤崎くんも同じ意見だそうだ。我々は今から帰社する」
「わかりました」
電話を切って腕時計に眼を落すと、間もなく14時に差しかかろうとしていた。
(俺も下に降りて、らしい人物がいないか見てきた方がいいだろうな)
井ノ内は周りのメンバーらに声をかけて事情を知らせ、その後、階下に下るため部屋を出てエレベーターへと向かった。
(ちょっと遅くなってしまったな)
その頃、貴大は会社のエントランスドアを潜ろうとしていた。
今日は引っ越しの手続きで朝から役所などに出かけていた。
引っ越し先についてはその時点でまだ決まっていなかった。
前回のメールで、学生時代のように奈良に住んで大阪本社が所有する木津川研究所まで通いたい旨を玲子に伝えていたら、今朝になって岡田室長から連絡があり、大阪一円に支店を持つ都内の不動産会社を紹介された。
役所の帰りに立ち寄ってみると、担当してくれた社員から奈良市の西大寺駅近辺に良い感じのマンションがあると言われた。その場で即座に手続きの運びとなってしまったため、予定した以上の時間がかかってしまっていた。
(まぁ、高橋さんと井ノ内がいるから、博士が来ていたとしてもテキトーに話を進めてくれているだろう)
あえて、当麻のことは考えないようにしていた。
会えなくても辛いけど、会ったらもっと辛くなりそうな気がする。会いたいのか会いたくないのか、自分でもよくわからないまま今日を迎えていた。
(いつもの仕事の顔で会えばいい。あいつも俺たちはもう終わったと言ってたんだから、きっと割り切っていることだろう)
自分に言い聞かせながら広々としたエントランスロビーを歩いて渡る。すると、エレベーター近くにある総合受付の辺りで何やら騒ぎが起きていた。
(なんだ?)
つい近寄って見てしまう。
受付デスクの前に、長い金髪を背中で一まとめに結んだ女が立っていた。
こちらに背中を向ける女は、デスクの向こうにいる2名の受付嬢に向かって何やら大声で捲くし立てている。早過ぎてちっとも聞き取れないが英語のようだった。
外国人らしい女は、3月になってもまだ寒い日本の気候を知らないのか、洗いざらしのTシャツと穴だらけの古びたジーンズのみを身に着け、大きなリュックを背負っている。見るからにバックパッカーの風情だ。
近くを行き交う社員たちも、何事かと言った顔をして遠目で見ている。しかし、英語で怒鳴り上げている女の剣幕に恐れをなして誰も近づこうとしない。
(………もしや)
ピンッ!と来る直感がなければ、貴大もきっと無視して通り過ぎたことだろう。
外国人の女性である博士が今日やって来る。その前情報を得ていただけに、確認しておいた方がいいと思ってしまった。
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