第1章-8
か細く震える声で祥希が挨拶する。
「佐野だ。こんなオッサンで悪かったが、よろしく頼む」
半分は織部への当てつけで言ったのだが、
「そ、そんな!オッサンなんて、佐野主任はそんなにおじさんには見えないです!!」
貴大の鋭い三白眼に恐れ戦いたのか、祥希は震える声を絞り出した。助け舟を出すつもりで、織部が優しく声をかける。
「ああ、お茶を持ってきてくれたんだな。ありがとう」
「あ!そうでした」
祥希は今まさに思い出したかのように手にしたお盆に眼をやった。
「お、お茶をどうぞ!」
すぐに貴大の前に湯飲みを置こうと、茶たくごと差し出した。そして、
「わっ!」
「きゃっ!!」
力の加減ができなかったのか、湯飲みが勢いよく宙を飛ぶ。中に注がれていた熱いお茶が貴大の胸元にぶちまけられた。
「あちっ」
「佐野!大丈夫か!?」
織部が慌てて駆け寄り、白衣のポケットからハンカチを出して貴大に手渡した。
「大丈夫だ。ちょっと驚いただけだから」
「ごっ、ごめんなさいっ!!」
祥希は織部の分のお茶が乗った盆を取り落とし、オロオロを通り越してパニックになりかけている。
「祥希、この階の給湯室に行ってタオルを数枚と雑巾を持ってきてくれないか」
織部はこんな状況に慣れているかのように落ち着き払って指示を出す。
「は、はい!!」
祥希は脱兎のごとく駆けだして部屋を飛び出していった。
「すまんな」
織部は、手渡されたハンカチで濡れた胸元を拭っている貴大にそう詫びた。貴大はそんな彼に冷ややかな視線を送った。
「あれで補佐が務まるのか?」
あれ、とはもちろん祥希のこと。
織部は面目なさそうにため息をつき、
「実務を任せたら彼は非常に有能なんだ。研究者としての能力も高い」
「不測の事態に対処する能力がなくてもそう評価できるのか?」
「――彼はその、おまえが怖いんだよ」
ハッキリと言われ、貴大は眼を据えた。
「俺は何もしてないぞ」
「いや、すまない。そうだな」
織部は申し訳なさそうに訂正した。
「祥希は極度の人見知りで、俺以外の上司を知らない。おまえが新しい上司になると頭でわかっていても、まだどう対応していいかわからなくて混乱しているんだろう」
貴大はハアッと、深い息を吐いた。
「しょっぱなから重い荷物を背負わされたような気がしてきた」
「そう言うな。おまえのその鋭い眼つきと怖い顔に慣れたら、あいつも落ち着いて仕事をするようになるから」
と言って、織部はどこか陰りのある眼差しを、祥希が出て行ったドアの方へ向けた。
「あいつのためにも、俺は東京に行った方がいいと考えたんだ」
「そうか」
何故、と貴大は訊かなかった。
何となくではあるが、織部の表情とその態度から、彼の祥希に対する深い愛情が汲み取れたからだ。
だからと言って、人のプライベートな感情に関わるつもりはさらさらない。貴大は何事においても仕事を優先する人間だった。
(どんな感情を抱いているのであれ、仕事で役立ってくれたら、それでいい)
そう考えながら貴大は言った。
「あいつが戻ってきたら一緒に昼飯を食いに行こう。少しでも早く俺に慣れてもらわないと仕事が滞る」
「佐野、祥希のこと、どうかよろしく頼む」
織部は貴大に向けて深く頭を垂れた。
この織部竜也との再会と、中原祥希との出会いの一場面が、今後における厄災事の始まりだったと、貴大は後々思い返すこととなるのだった。
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